賞状よもやま話

天平時代の写経生の生活

538年に百済より日本に仏教が伝来し、法隆寺が創建されるなど仏教の布教活動が盛んになり、大量の紙が使われましたが、まだまだ希少で高価なものだったので写経生も命がけでの作業だったようです。

当時の写経生の生活

正倉院文書には、写経所の記録が残されていて写経生の生活の一端を知ることができます。

当時の写経生は一般の人たちよりも相当に豊かな生活をしていたと思われますが、借金の証文が出てきたり、待遇改善を訴える陳情書が残っていたりと生活の厳しさを彷彿とさせるものもあります。

写経生になるには、試験に合格しなければなりません。
採用されると、官給の衣装を身に着け、紙や筆を支給されます。写経所では、仏前に香を焚き、礼仏師の読経の声を聞きながら写経に勤しみました。

写経生の賃金について

一日の写経の量は平均して7枚程度です。1行が17文字、1紙で22から23行ですから1日に約3千字を書いた見当になります。
賃金は出来高で決まり、1枚が4~5文。現在の金額でどのくらいかは分かりません。

誤字、脱字があると賃金を差し引かれ、5~20字で1紙分の賃金を、また1行の脱字は4紙分の賃金といいますからかなりの額だと考えられます。
筆や、使用しなかった紙などは返却し、筆は整えて再利用していました。

彼らは、写経所で寝起きをしていました。着用する衣装を洗濯する優婆夷や、食事を作る膳部と呼ばれる人たちもいたようです。ただし自宅は他にあり、病気などのときは自宅に帰っていたようです。

それにしても、書き間違えると処刑なんていう事にならなかったようで、同じ書き人として安心いたしました。

伝空海 隅寺心経

伝空海 隅寺心経 画像

出口写経見本画像

上の画像が空海の書いたとされる隅寺心経の資料で、下の画像が店主出口が空海の隅寺心経を手本として書写したものになります。

「隅寺心経」は、奈良の都の北東の隅にあったことから隅寺とも呼ばれている海龍王寺で、空海(774~835)が心経千巻を書き写したと伝えられています。賞状、2千枚くらいに相当するのではないかと想像します。